我が家のポケットモンスター(3歳と5歳)は、親孝行にも一番安い幼稚園に通ってくれています(4月からは下の子も同じ所に行ってくれます)。
その幼稚園には見事な銀杏の樹があり、子供たちに「季節」を教えてくれています。昭和37年頃から子供たちを見守っていると聞きました。
私も時々送っていくのですが、あの銀杏には畏敬の念を抱きます。とくにうっすら白い甲斐駒ケ岳をバックに青空に映える黄色はちょっとした楽しみでした。
その話を妻から聞いたときは、怒りを禁じ得ませんでした。
周囲の苦情のため、幼稚園の行事が減らされているというのです・・・
そのクレームをあの大樹はどう聞いているのでしょう・・・
少子化対策とはこういうところなのではないでしょうか。
今、子育てをしている世帯は私が子供の頃からすれば少数派になってしまうのではないでしょうか。精神的なバックアップを受けるならまだしも、前述のような言われなき非難を受ける筋合いではありません。
どうしても間に合わず、用水路に小用を足した際に注意を受けた親子もいたそうです。いつから、そんな息苦しい事になってしまったのでしょう。
そうであれば、私が子供の頃、小学校から帰る時の所業は打ち首ものですよ(^_^;)
子供達や未熟な私共を甘やかせていいという訳ではありません。本当にクレームをつけるべきは、給食費を払わないという虐待をしている不届き者や廊下に立たされたら教育委員会に言ってやる、というような、これからの人口減社会には負荷となる存在に対してであり、それをしないで前述のようなクレームをつけるのは卑怯ではないでしょうか。
以前、こちらの地方紙に新宿に向かう特急(そう、狩人です)での「事件」が投稿されていました。
1歳の子供が泣いてしまって、初老の男に「静かにさせろ」と怒鳴られたと言うのです。
この少子化の時代にその男の存在は社会にとって「負荷」といわざるを得ません。その子を静かにさせる知恵を持っていないのであれば、使えないけどそこに居てもいいよということであり、母親を情けなさで新宿まで泣かせるとはもってのほかです。
それを読んだ私は迂闊にも「貴様のような奴のために年金を払うつもりはないぞ」などと心の狭い了見を起こしそうになりました。
(こういう所はイケないと思っているのです。「ばかやろー!ウィンカー出してから動くんだよ・・・」と車内で怒鳴ると、子供たちにたしなめられています(^_^;)
怒るというのは自分の発散でしかなく、問題を解決しようという発想ではないのですから・・・
子を持つということ [IR0430] 2007-01-26 08:10:21 (金)
趣旨がずれたら申し訳ありませんが、日経BPのサイトにこんな記事が載ってました。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070122/117394/
私は少子化はある程度までテクニカル面とマネー面で説明できると思っています。(ワーキングプア、競争社会で子作りどころではないなど)
しかし、本来テクニカルやマネー面であったものがメンタルまで効いてきてしまったのじゃないかと思います。一時、クレーム処理の責任者をしていたことがありますが、社会全体に許容性がなくなってきているのを肌で感じました。すべてがひとつにつながっているように感じます。何いいたいかわからなくてすいません。
-補足します。上記で紹介した日経BPの記事はサイト中の寄せられたコメント見るとさまざまな感じ方があるようです。そちらはごらん頂くとして、私があえて紹介したのは私含め親も社会も子供を持つ覚悟を甘く見ているように感じてしまったので、Tanacさんの論旨がずれそうな気がしながらも引用しました。競争社会、格差社会への急な移行が社会全体の余裕をなくし、子供を持つということ、他社を許すということを個人レベルでも社会レベルでもイメージできなくなっているように感じます。そういう意味でひとつにつながっていると表現しました。 — [IR0430] 2007-01-26 18:58:33 (金)
-IR0430さん、ご投稿ありがとうございます。
そのようなお立場でいらした際はまさに許容性に関わっていたわけですね。
私もキーワードは「自分さえ良ければいい・・・」と「想像力の欠除」になるのではと感じています。
競争社会、格差社会ですが、教えていただきたいのですが、競争しない自由とはあるのでしょうか。それがある場合始めから競争しない人は競争して失敗した人と比べて、社会のカバーはどうあるべきなのでしょう。その辺りのメッセージが指導的な立場の方々から伝わってこないのです・・・
「じゃあ、何を基準に知事選の選挙入れたんだ?」そうなんですよね・・・こちらの場合官製談合とかの騒ぎはなかったので、山は動いたのでは・・・なんか分かりにくいんですよね。知事選は相乗りはダメだって党首が言っているのにそれに背く説明がないと・・・それと64歳VS71歳ということでしょうか。(すいません、それましたね) — [Tanac] 2007-01-27 06:30:57 (土)
-健全な競争は必要でしょう。競争のない社会がどのような末路をたどるかは旧ソ連はじめ、多くの旧社会主義国が示しています。競争がない、今と変わらない将来が見えてしまう社会はむしろグロテスクで希望がないのです。
ただ、今の競争社会は過去見ない状況が現出していますよね。これはITの発達とともに経済だけでなく、人材も土地もグローバル化したためもあります。たとえば中国やベトナムに自社資本の工場を建てるのは人と土地を安く輸入しているのと同じです。したがってこの競争は日本の人件費と中国はじめとする新興国の人件費との差額が極小化するまで続くということです。アメリカの優秀なIT技術者が切り開いたインターネットのおかけでインドの会社へのプログラムの外注が容易となり、結果的にアメリカの優秀なプログラマーの多くが職を失ったり、収入が激減しているのは皮肉な話です。中国、インドはじめ新興国の人件費が上がり、日本人の給料が激減して両者の雇用経費が均衡する地点まできびしい状況が続くでしょう。今までと同じ給料水準を保つには自らに付加価値をつけるしかなく、昔のように歯を食いしばって残業していれば何とかなった時代とは競争の質が根本的に変わりました。私の会社でも生産の海外移転が進んでおり、その作業の一端にかかわっているのですが、自分の仕事をなくす作業を一生懸命やっているような気がしてなりません。それでも資源のない日本は貿易で食うしかないのでこの流れは大筋で変わらないでしょう。日本では西欧諸国で見られるような近隣新興国からの移民が多いわけではないので、こうした本質がなかなか見えないと思います。この底なしの感触を自覚できず、じりじり余裕をなくしていることも許容性低下の要因の1つじゃないでしょうか。際限なく話がずれてますが、見方のひとつとして。 — [IR0430] 2007-01-27 09:40:05 (土)
-IR0430さん、ありがとうございます。健全な競争とはどういうことになるのでしょうか・・・
すべての人が常に競争しなくてもいいのでは・・・(きちんとやっているなら)
そういう人は健全であっても競争が求められる場にいなければいいのかもしれません。
常に競争しない人は社会からどう位置付けれるのでしょうか。その見守りがどうあるべきかの具体的なアイデアは私にはなく申し訳ないのですが・・・(議論にならなくてすいません・・・) — [Tanac] 2007-02-01 16:22:16 (木)
-すいません、私にもありません。昔は日本ではそこそこの働きでいいからそこそこの給料という仕事が最も多く、だから中産階級が成長したんですが、これからはそういう仕事が最も少なくなると思います。競争しない自由はあると思いますが、昨今のワーキングプア問題にもわかるように、その自由の行使はなかなかしんどいでしょう。北欧では充実した社会保障で失業したまま低所得生活するスタイルが確立しているそうですが、低所得者が楽しく暮らせるライフスタイルが社会的に確立しないと、私のように競争したくない人間にはつらい状況が続きそうです・・・。 — [IR0430] 2007-02-03 12:51:21 (土)
コメント