やはり学ぶこと・・・

日曜の朝。録画ではない番組を見ることが多いから?学びにつながる番組が多いような・・・

実はそれが開催中に名古屋に行く機会がありながら、正直見に行ってみようかな・・・と1ミリも発想しませんでした。

「空気」

個人的に、それを把握するのが下手・・・いや、下手であるという自覚すらなかった(^_^;)

(でも、そこが問題のようだということは分かってきました。)

 

世の中では、大騒ぎになっていました・・・

「脅迫」して逮捕されてまで、それらに対して強い嫌悪感を表す人が多かった・・・

(いまそういうものを発すれば、アレルギー反応が起きるだろうに・・・それでもやるということは、そういうメッセージということなのだろう・・・)

そんな感じの理解でした。その作品を見るまでは・・・

 

(あ、「空気」だ・・・)

私にとって出会いとなりました。世の中での対立の構図とは全く違う次元の・・・そのアーティストの他の作品をすぐに調べました。

(「空気」がたくさん・・・)

 

わたしは、それに対するイデオロギー的な論争には興味はありませんが、週に5~6日、朝のジョギングの途中に近くの神社にお参りし、「いつもありがとうございます」とお礼して、そうですね1年が過ぎました・・・

他の人がどうあるべきかには興味はありません。ただ、続けていくうちに、大きな木が立ち並び、しかし、隣の動物園からそれぞれの鳴き声が聞こえる6時前の不思議な空間でのルーチンワークが、なんというか落ち着く特別な時間になっています・・・

 

作品の解釈は・・・というより、そもそも人の価値観は様々なのでどう解釈すべきか議論することはナンセンス・・・

今年は令和となり、その存在を印象付ける行事が続いたこともありますが、そういえばいつもお参りしているところと実は関連が深い・・・(参拝を始めたときは正直結び付いていませんでした)

その存在を消すことによって・・・それがなんであるかを今までこれ以上表現したものを、私に教えてくれるものはありませんでした。当たり前の存在は実は理解が難しい・・・

そこに現れたのはまさに「空気」でした。その空気はどこにあるのか・・・それが見えてきました。とくに、多くの人が玄関での二人に並んでお辞儀をしている作品が一番印象的・・・

 

私がこの気づきを得ることができたのは、表現は自由であるから・・・

(だから表現は自由であるべき?)

いえ、人類にとってはもっと深いはずです。その自由を人類はどのように獲得し、多くの国でなぜそれが基本的な人権として優先的に守られてきたのか・・・(といっても中学の教科書位でかなり理解できると思われますが)

 

わたしは、これからも静かに神社にお参りし、「いつもありがとうございます」とお礼をし続けたい・・・

それがかつてこの国でできなくなった歴史の転換点であった、大正デモクラシーから戦争への道・・・その時「空気」は・・・

見えない人たちの中にあった空気を見えている人が利用した。

 

では、利用されないようにするには・・・そのバロメーター・・・

権利章典やフランス革命で多くの血の上に人類が獲得した「表現の自由」。

 

ただ、感情的に溝が深まると議論ができなくなり、逆にそれを失うことになる・・・

発信者側には、それによってどういう反応が起きるのかというイメージを持つ必要がある・・・という指摘は適切であり、良いドキュメントだと思いました。

(見えている人が見えていない人にどう見せるか・・・表現は暴力的にもなりえるので)

 

コメント

  1. 匿名 より:

    む?
    むずい…

    • tanac より:

      コメントありがとうございます。
      そうですね、盛り込み過ぎましたね(^_^;)
      まずは自分の気づきの忘備ということで・・・m(_)m

      私たちの世代は、「世界は一家、人類はみな兄弟」というワードはみんな知っているはず(よく見るテレビのCMだった・・・)。でも、検索するとそれを言っていた人の情報が・・・スッと入らないかもしれませんが、結局これをイメージできるかどうかなのかな、と。
       もうひとつは、カイヨワの「戦争論」でしょうか。人はボーとしていると「戦争に傾いている」・・・
      「想像する力」がより必要になってくると思うのです・・・

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